キネクト使ってるのは知らなかった。
それでは、お聴きください。小田和正。「言葉にできない」
それでは、お聴きください。小田和正。「言葉にできない」
いよいよ平成最後の日。
この文章を書いているまさにこの時も、カウントダウンは刻々と迫ってきています。
思えば、平成の世は「激動の時代」でもありました。
30年も前には「あり得ない」と思われていた事を実現し、また、予期せぬ災害にも見舞われ、悲しい事件や予想外の出来事など、様々な事がありました。
明日からは「令和」という新しい年が始まります。
変わる事と変わらない事……
時間が止めどなく流れるように、世界は少しずつ変わっていきます。
今、コレを読んでいるあなたにとって
この令和という新しい年が、良き変化のきっかけとなるよう、私は心から祈っています。
平成31年4月30日 睦月透火
さて、今日は番外編。Special Thanksにある、船橋情報ビジネス専門学校について書こうと思います。今も学校は成長しており、新1年生はそろそろ学校の雰囲気に慣れ始めてきた頃ではないでしょうか。私は20年前入学し、様々な同級生の刺激を受けて2年間を過ごしていました。
その当時のことをこれまであまり話す機会もありませんでしたが、今回は当ブログの番外編として、その当時のこと、今思うことについて書いてみたいと思います。
◆きっかけ
私が学校に興味を持ったのは、高校の時の進路説明会でした。時の楽園の、ラクエン通信の「[番外編]セリスのはじめてのインターネット」で少し触れましたが、説明会に来た広報の先生の話をはっきりとは覚えてはいませんし、当時表向きは「ゲーム制作(か、それに関わる何か)」と話してましたが、具体的には何をしたいのかが判らず、ただ、答えも出ず悩んでいたのは事実でした。
とはいえ、高校の担任の先生がノートPCを使いこなしていたりしてるのを見て、完全にパソコンに興味は移っていました。大久保にある日本電子と非常に悩みましたが、学校の先生の勧めと、自分の長距離通学の姿の想像がつかなかったので、表向きの理由を今は閉店した「船橋フジ」として、船橋情報ビジネス専門学校に入学願書を提出しました。
それからしばらくして、推薦入試の案内が来ました。夏休みの時にも、ドキドキしながら東武野田線(東武アーバンパークライン)に乗って体験授業を受けて、ホームページを作った記憶がありますが、次行くときは、もう入試でした。
船橋駅を降りて改札を出て階段を下って左に曲がりエスカレーターを登って降りて、イトーヨーカドーを横目に千葉銀の先。天沼公園の手前を左に曲がり、その建物につきます。しかし今もそうですが、何度思い出そうとしても、面接試験の時に何を話したのか。今の私は思い出すことができません。確か鳥居現校長相手だったとは思いますが「ゲームは専門じゃないよ」とまで言われ、もう泣きたい気分だったかもしれません。鴨川で行われた入学後研修の記憶と併せて、記憶からすっぽり抜け落ちてます。
その後、どういうわけか合格通知が来て、晴れて船橋情報ビジネス専門学校の、工業専門課程マルチメディア科に入ることになったのでした。しかしビジネス系の専門学校で、ゲームに関わる何か。というのだけで、(推薦とはいえ)どうして私が合格したのか。いまだにわかりません。
◆学校での日々
この時出会った一人が、高速道路フォントで知る人ぞ知る「ぱんかれ」さんだったりして、今でも時々彼と食事に行くと、FJBで何が一番役に立った?みたいな話になることがあります。よく授業で使われるコンピュータ室の前の円卓で他愛もない話をしながら食事をし、大富豪をし、コンピューター室でネオジオフリークチャットに出入りをし、パワートダイを見て、それはそれは膨大な情報の温泉に浸っていました。
また、ぱんかれさんのゲーム開発や当時岐阜で行われていた、バーチャルリアリティコンテストの準備の様子も横で見続けていました。ぱんかれさんや他の学友の制作の流れや現場が見れたこと何かは、実に得難く、贅沢なものを観させていただいたなぁと思います。
私はぱんかれさんのように物を組み立てることは苦手ですし、プログラムだってできません。卒業制作ではロジカルに積み上げた上での結論を、そのロジックを含めて説明し発表していた…という風に噂も聞いてます。「はじめに言葉ありき」と聖書に書かれていますが、「はじめに意図ありき」というのを、当時も今も、彼の節々から感じます。
最終的にプログラミング言語やHTML言語、PHPなど。その時々の内容や目的に合わせて様々なプログラム言語や画像処理に落とし込むわけですから、私なんかは致命傷に思えます。彼はイラストだけでなく、その気になれば動画も全部ひとりで作れる人間ですし、実際に架空CMを作ったりしてました。
そして私なりの想像や考えですが、私は船橋情報ビジネス専門学校で「ITの持つ可能性と将来性。そして夢」を学んだことに対しぱんかれさんは自分の基礎確認が一番役に立ったと話していますが、あくまで私が見る彼は「意図を構成する力」、「意図を言語化する力」、「意図を具現化する力」その3つに長けているのでしょう。もちろん意図を構成するには考えること、話すこと、書くことが重要ですが、その前に「観察」と「気付き」がまず必要です。日常生活のあらゆるものに興味を持ち、そのデザイン性、動き、成り立ちを観察しなければなりません。それもただ観察するだけでなく、その要点や意味に気付きを持つことが必要です。そうして高速道路フォントは高い完成度を誇り、今も方々で使われているように感じます。
学校生活の中からはじまった、ぱんかれさんとの関係は、その後の私の人生に大きく影響を与えています。ぱんかれさんとの出会いがなければ、確立しえなかったスタイルや作法。おそらく、流儀なんかも持っていなかったかもしれません。
◆あくまで私が見る船橋情報ビジネス専門学校とは。
私とぱんかれさんがいたマルチメディア科は、現在webクリエイター科とか情報処理科とかにその陽炎を残すのみとなりました。そんな点では、船橋情報ビジネス専門学校とは「IT業界の動向に併せたヌーベルキュイジーヌ(新しい料理)のグラン・メゾン(高級レストラン)」ではないかなと考えます。そこで在校生が使った技術と生み出された料理は何らかの形でレシピとして残り残り受け継がれるものの、そのレシピを生み出した技術や卒業生の器としての名声は、時間とともに過去のものとなるのでしょう。
ドローンやA.I。タブレット端末の普及も手伝い、船橋情報ビジネス専門学校は、大きな岐路に立たされています。その後の事を見据えて、こども学科を作ったのかもしれませんが、どうも思惑は今のところ独り歩きして別の道に行きだしているようにも見えます。いや、内情は知りませんしわかりませんし、まだ何枚か切り札は持っているような気もしますが、多分そう簡単にうまくはいかないでしょう。
今後、船橋情報ビジネス専門学校はどのような道を歩むのでしょうか。私が昔味わったドキドキワクワクはどう変わっていくのでしょうか。老舗が暖簾を守ると言うことは、伝統を守ることと新たなものを取り入れること。このバランス感覚にあるように思います。
昔のものを頑なに守るだけでなく、時代時代で変革をしたり絶えず新たな試みを取り入れ、決してあぐらをかかず時代に寄り添っていこうとする姿勢が力になっているように思います。
船橋情報ビジネス専門学校を卒業した私が、学校の行く末について多くを語ることはありません。ただ最近キーボードが使えない学生の話などを聞くたびに、過去から今に続く道筋が崩落し、終焉を迎えようとしているのではと感じる事も、
一度二度ではございません。
とはいえ、その後の船橋情報ビジネス専門学校にとって大事な時期にさしかかっているのは避けられない事実でしょう。しばらくは動向を、愛と尊敬の眼差しで、見守っていこうと思います。
「平成」は、良くも悪くも激動の日々であるとともに、私からすれば「ワープロ通信」が「パソコン通信」になり「インターネット」になり・・・という変化と技術発展を見続けることが出来ました。
どうか「令和」が私達にも。未来の人達にも良い時代でありますように。
画面が大きくなったので、真っ直ぐ立つと目線が丁度矢印のスペースと真正面になりました。
ハイスピを2に変えてみたら、思いのほかちょこっと早いくらいだったので、ハイスピ2とかハイスピ1.75辺りで見事にピカピカ光りました。あとはこれでなれるだけ。うひょー。
∩___∩
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私、今までハイスピ2.25~2.5だった。ハイスピ1.75~2.これでいくしかない。
会社が終わって色々あって家に着いたのは3月15日(金)夜11時30分過ぎ。
そこからお風呂に入ってお風呂を掃除して、リビングと台所掃除機かけて、PSO2のデイリーオーダー受けて、寝たのが3月16日(土)午前3時半ごろ。そこから眠眠眠眠・・・・・・・・・・・・
お手洗いで一回起きてそのときは3月16日(土)夕方4時。親にお風呂といわれ叩き起こされた夕方5時まで二度寝。晩御飯を食べて夜7時に3度寝。3月17日(日)午前1時起床。近所のセブンイレブンでサラダパスタを買って食べて今です。
合計18時間寝ていました。
皆さん。おはようございます。こんにちは。こんばんは。
「偽透火」久々の登場です。
透火さんは今PSO2が忙しい状況らしいので、代打として私、偽透火が今回はペンを取ろうと思います。
さて、今回は、「バグ」についてです。最近PSO2で幾つかの不具合で大荒れしましたので、開発を擁護する気は毛頭ないのですが、ちょっと物を知らない方が非常に目立つので、ゲーム業界に片足を突っ込んだ経験もある「偽透火」が、ちょっとご説明したいと思います。
「何故ゲーム業界は、バグや不具合を抱えたままでもゲームの発売、稼働が許されるのか。」
ビジネス系プログラマーの人や、他業種からすれば確かに異様な光景です。この風潮を文化と抜かすどっかのクリエイターもどうかと思いますが…
通常、ソフトの製作工程で、仮に10日間でやらなければならない仕事があったとします。それを12日間でやったプログラマーに対して、リーダ-は、「よくやった」と言わなければいけないと思います。
普通の仕事なら、決められた期日に終えるのが優秀かもしれませんが、開発の場合は不確定要素が多くて、なかなか予測しきれないものです。
プログラミングにかかる時間だけでなく、ハードウェアの具合が悪くなったり、ネットワークの不調のための仕事の遅れは往々にあります。
そのような不確定要素とミスを犯す確率と客観視して予測できるケースを立てられる人は、おそらく100人に1人もいないと言われています。 ほとんどのケースが希望的観測が強すぎて、予期しなかった溝にハマってしまうものです。
ビジネス系プログラムは昔からだいたい3割ほど余裕をもってスケジューリングするように指導、調整する。と言われています。
つまり、与えられた開発期間が12ヶ月なら、9ヶ月で完成するように計算して、3ヶ月を確認に充てるように…と、考えるわけです。
最近、ゲーム業界では製作チームの人数の増加という難しい要因があります。80年代~90年代前半位までは3人~10人くらいでひとつのゲームを作りました。
今は15人から20人、大きなチームや看板タイトルなら50人、100人、外部会社とも組むと500人とかそれ以上の例もあります。
人が多くなればなるほどプロジェクト・リーダー(責任者)はスケジュールや予算の予測が難しくなります。 規模が大きくなればプロジェクト・リーダーがみんなを見ることができなくなり、間に誰かが入ることになって、ロスが出てきます。 時には伝言ゲームみたいに、バナナがイチゴになったりもします。つまり、ここにも不確定要素が増えていくわけです。 ですので、もともと小さいチームでしか管理経験がない人がプロジェクト・リーダーをやると、なかなかうまくいきません。 大所帯のマネジメントになれている人がヘッドについてやれば、様々な予測がつくはずです。
当然それ以外にも、ゲームの思い入れを継続し、チームを長期間リードしていくエネルギーも求められます。
昔はまだしも、最近は大所帯ですので50人100人にも及ぶ人を1年間(以上)継続的に、かつ方向性を持って引っ張っていける人というのは、確率的にいっても少なくなるでしょう。
ところが現在はそういった環境が主流になってきています。そんな事情もあって、スケジュールの遅れが表面化してきているのです。当然スケジュールが遅れると、予算も掛かりますし、クオリティにも影響は現れます。
最近はお金や納期までの時間が無いからという理由で厳密なデバッグをしないケースも非常に多いです。
致命的なバグが出たらデバッグに掛かる費用以上に金がふっとぶことを営業や経理も理解していないですし、人命に関わる、人体に有害、社会的な被害が甚大、ゲーム機やデーターに100%致命傷を与える、プレイヤーの腕に関係なく100%確実にフリーズ、データー破損する。というものでもなければ回収は無い。という常識すらまかり通るのがゲーム業界の怖さですし、原因がソフト側にあるとしても、それはどのくらい発生してるかという問題もあるでしょうし、バグが含まれたまま出荷され、会社の規模にもよりますが、回収交換対応が遅れる多くのケースはこれが理由です。
検品などの「確認作業」は売上をアップさせる作業ではないですし、売上アップの前にコスト削減のほうが急務というのが現在の風潮です。
一番人材がそろって条件も良かったプロジェクトの前提で計画を立てる。しかし常に規模が大きくなるので、人材がそろわない。時間も足りない。企画が決まらない。だから失敗し、不具合を抱えたまま作品が世に出る。取り繕うことに成功したモノは良ゲー、失敗すると糞ゲー。こう考えるとゲーム業界は本当に怖い世界です。どっちにころんでも泣きを見るのは小売と消費者です。
確かに狙った内容のものを狙った時期に出せれば、競争相手も少なくなるでしょう。クオリティが下がってでも早く作ったほうが、ビジネスとしては安全だと思います。
スケジュール、クオリティ、コストのうち、すべてを満足がいくように作るのは無理ですから、コストとスケジュールを優先するのなら、もう少しゆとりのあるスケジュールを組んでいただければと思います。
と、いう訳で、バグを抱えたままでもゲームが販売される理由は、
1、納期と予算が最優先のため
2、プロジェクト・リーダー(責任者) のスキルの問題
と考えられます。
でも世の中。例えば、エアコンやカーナビが動かない不具合を抱えていたって、売れるクルマがあるんですが、どうしてそれは許されるのでしょう?
そういうわけで年末に色々とあった反動でお正月は寝正月でした。
一年の吉凶を占う儀式ですが
大みそかは自己ベスト更新して
2日目はコンボ切りました。
そもそもプレイしたラウンドワンアリオ柏店のメンテナンスが混沌としていたので何とも言えない気持ちなのですが。何というか、体力落ちたね。おととしとか123曲プレイしたりしたのになぁ。
で、相も変わらずやる気はないのですが
放置してたら無事に八段になりました。
さて、今年ですが、多分色々と嫌なことが起きる年なんだろうなと思います。おみくじを引いても(小吉)争いごとに巻き込まれる暗示があるとか、何事も控えめにしていた方が良いとか、全然良い事が描かれていなかったのでもう一枚引いたら(大吉)でした。何かにつけて運気低迷の兆しがみられるという事でした。
1年間の無職のブランクは、自分の心に焦りを産むには十分でした。何か少しでも備えが出来ればなと思っている今日です。
今年もよろしくお願いいたします。
セリスです。今年一年も、無事(?)終わりました。
◆仕事
12月の滑り込みで仕事が決まり、残すは年明けの客先顔合わせという状態です。面接をしてくださった方が非常に真剣な方(取締役事業部長さん)で、お互い話し合うこと一時間以上。面接中に即採用が決まった形です。
私のポジションや経歴、出来ること出来ない事を一緒に棚卸して出た答えが、PMO(プロジェクトマネージメントオフィス)でして、実際はかなり重要な役職の下積み(?)から自己流実践(?)まで続けていた事に気が付きました。
しかし、こちらを観ればわかる通り、全方位から受け取ったり発信したりと言う事ですので、仕事での目標はまず、働きながら『プロジェクトマネジメント・アソシエイト認定資格(NPMO認定PJM-A)』を取る事になるかもしれません。
受験料も4万円で、eラーニング込ですから初回の給料で十分稼げると思ってます。必須なスキルは無いですが、規模が大きければ大きいほど、重要性が増しますので、大変さと比例して、やりがいも大きそうです。
◆ゲーム
色々と触ったわりには最後に泣きを見る事が多く、特に鉄拳はオンライン対戦に置いて無人店舗でプレイをして負けそうになったら電源を落として履歴が付かないようにして連勝を重ねて『魔拳』まで行きましたが、羅段サブキャラにやられまくり、結局『餓狼』まで落ちました。
DDRはちょっとやらないだけで一気に体力が落ちましたが、新規クリアに『MAX300(X-SPECIAL)』が個人的に一番嬉しかったですね。
五鍵盤beatmaniaは、残念ながら野田レジャーランドのモニターが死んでしまったので、収穫はありませんでした。
PSO2では 12月5日を持ちまして、XEBECの資本メセタが10億に達成するという快挙を成し遂げる事が出来ました。
◆体重
70キロ台に戻りました。自宅の体脂肪計では73.0キロを超えると軽肥満と出るのでこの前後で落ち着かせられるよう来年も頑張ります。
◆時の楽園
『せりすけフリーク』の更新をかなり頻繁に行いましたがギリギリ150は行かず、年明けにお預けとなりました。そんな『せりすけフリーク』新年一発目のタイトルのヒントは『ファミコン』『タレントゲー』『初夢とかけまして』さて、何でしょうか。新年一発目は1月4日です。お楽しみに。
最後になりますが、睦月透火さん。今年はラーメンを御馳走させていただき、また私の我儘にも嫌な顔せず付き合ってもらい、本当にありがとうございました。また来年もよろしくお願いいたします。
と、言った所でこの辺で。それでは、良いお年を~。
いよいよ、明日から2019年。
学生の頃は毎度思ったけど、年末年始って退屈な時間だったのよね……
でも社会人になってからは仕事(介護福祉士)のせいか、ずっと蚊帳の外から視ている感覚です。
(´・ω・`)
社会人の年末と言えば……なんだろ、下世話な話題しかない( ̄▽ ̄;)
私は今年も、年明けをネット上(PSO2)で迎えます。
プレイヤーとしては恒例行事ですね。
ただ、リアルではもう行く気起きない……やる気出ない(´・ω・`)
あ、キャラの晴れ着倉庫から出さなきゃ
2019年、貴方はどんな年にしたいですか?