崩壊

 学校の先生方の研修で、クローズアップ現代の「学級崩壊」のビデオ鑑賞と言うものがあるそうです。

 随分前の内容なのですが、基本的には授業が成り立たないことや、児童・生徒のとる反抗行動、教師の窮状や教師の崩壊の様子です。結局の所、家庭環境や経済状況が影響しているのは間違いないでしょう。

 公共の場で子供がマナーを破っても、親が注意しなければ、子供はそれを悪いことだとは思いません。そういった注意が出来ない親が増えれば、子供はやりたい放題に育ってしまいます。しかし注意する人間が親以外の他人になると、所謂、自己陶酔の印象を与える場合があるので、そうなると逆効果です。

 そういった環境で、育った子供が幼稚園や学校に来ると、好き嫌いで行動するようになります。そうやって能力を発揮するのは一部の天才と言われる人間のみです。日本人のうちの九割九分は、凡人です。凡人の好き嫌いは、ただのわがままです。放任主義で、まともに育つのは、本当にごく一部です。子供にそういったことを期待するのは無謀です

 そして、手の掛かる問題児は、教師の側から嫌われるようになります。そうなると関係は悪化するのみです。関係が悪くなれば、授業をまともに受けなくなるのは当然です。そしてさらなる悪循環は生まれ、崩壊となります。

 今現在、高校から先は義務教育のレールの上には載っていません。少なくとも授業を絶対に受けたくないという学生は存在しないはずです。それは中退という選択がとれるからです。高校生の場合、就職に関わるからしぶしぶ学校に来る学生がいるとしても、わざわざ何かしらに反抗的な態度をとる高校生は、はたから見れば滑稽です。

 義務教育との決定的な違いは、授業を受けるのが、権利であるか義務であるかというところにあります。権利なら放棄できますが、義務ではそうはいきません。

 しかし、鬱病になって改めて実感したのですが、高校から先の世界で怖いのは、実は崩壊ではなく無気力という問題です。能力がどうこういう以前に、生きる力という点で致命的に劣っています。問題が起きなければOKと考える教師や親が居れば、その人は人間ではありません。親・教師失格です。

 通常、学校の先生が学生を評価する点は、真面目さと協調性だそうです。ですが最近は、独自の価値観と、一点の技量の高さを評価すべきだという意見が増えているそうです。つまり周りに流されず自分の考えが持てるかということと、とにかく一つは得意なものを深く持っているかです。

 独自の考えといっても、矛盾点をちょっとつくとぼろが出るような底が浅いものは、0.5秒で却下です。特技も他人よりちょっとだけ得意というのも、0.5秒で却下です。しかし、それさえクリアしていれば、日常の態度が悪かろうが、その他の成績が最悪だろうが本来問題は無いと、先生は見るべきではないか…という事です。ネジが飛んでいる人間の方がフィーリングが合い、成功もしやすいというのが今の社会…と言うのも、ちょっと考え物ですが。

 ほとんどが趣味であっても特技では無く、価値観はテレビで植え付けられ同一(例えば●●と同じ服装とか、髪型とか、好きなタレントとか)そんなもので構成されています。個性だと思いこんでいるのは、他人の真似という最悪のパターンです。

 好きな物で文句を言いたくないと、メディアやマスコミ、周りに流される受け売りの価値観、学校や社会が何でも規制をし続け、これだけは得意なんだと言えない技能、(野球、サッカーなどが出来ない運動公園など論外)他人に言われたことをやるだけの無気力、(学校がやる…と前提の上で、生徒に判断させる行事や奉仕活動など論外)そこから派生する非行。つまり、こういった状況こそ本当の学級崩壊とは言えないでしょうか。

 ではここで質問です。反抗されることと、無気力。本当に怖いのは、どちらなのでしょうか?

 今の私達大人のやり取りを横目で見るうちに、無気力な子供が増え続ければ…大変な騒ぎです。そうなると日本という国は、永遠の不景気をさまようことでしょう。

 実際、日本以外のアジアの地域の技術力の向上で、借金だらけになっている国の存在価値が、コロナで大きく揺れ動いた今も日々問われています。

 火炎瓶や手榴弾を投る。農家がロケットランチャーを振り回す。これがカジュアル化している国。これはこれで安全において困りますが、そっちの国の未来の方が、明るく見える状態では、困ります。

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