さて、今日は番外編。Special Thanksにある、船橋情報ビジネス専門学校について書こうと思います。今も学校は成長しており、新1年生はそろそろ学校の雰囲気に慣れ始めてきた頃ではないでしょうか。私は20年前入学し、様々な同級生の刺激を受けて2年間を過ごしていました。
その当時のことをこれまであまり話す機会もありませんでしたが、今回は当ブログの番外編として、その当時のこと、今思うことについて書いてみたいと思います。
◆きっかけ
私が学校に興味を持ったのは、高校の時の進路説明会でした。時の楽園の、ラクエン通信の「[番外編]セリスのはじめてのインターネット」で少し触れましたが、説明会に来た広報の先生の話をはっきりとは覚えてはいませんし、当時表向きは「ゲーム制作(か、それに関わる何か)」と話してましたが、具体的には何をしたいのかが判らず、ただ、答えも出ず悩んでいたのは事実でした。
とはいえ、高校の担任の先生がノートPCを使いこなしていたりしてるのを見て、完全にパソコンに興味は移っていました。大久保にある日本電子と非常に悩みましたが、学校の先生の勧めと、自分の長距離通学の姿の想像がつかなかったので、表向きの理由を今は閉店した「船橋フジ」として、船橋情報ビジネス専門学校に入学願書を提出しました。
それからしばらくして、推薦入試の案内が来ました。夏休みの時にも、ドキドキしながら東武野田線(東武アーバンパークライン)に乗って体験授業を受けて、ホームページを作った記憶がありますが、次行くときは、もう入試でした。
船橋駅を降りて改札を出て階段を下って左に曲がりエスカレーターを登って降りて、イトーヨーカドーを横目に千葉銀の先。天沼公園の手前を左に曲がり、その建物につきます。しかし今もそうですが、何度思い出そうとしても、面接試験の時に何を話したのか。今の私は思い出すことができません。確か鳥居現校長相手だったとは思いますが「ゲームは専門じゃないよ」とまで言われ、もう泣きたい気分だったかもしれません。鴨川で行われた入学後研修の記憶と併せて、記憶からすっぽり抜け落ちてます。
その後、どういうわけか合格通知が来て、晴れて船橋情報ビジネス専門学校の、工業専門課程マルチメディア科に入ることになったのでした。しかしビジネス系の専門学校で、ゲームに関わる何か。というのだけで、(推薦とはいえ)どうして私が合格したのか。いまだにわかりません。
◆学校での日々
この時出会った一人が、高速道路フォントで知る人ぞ知る「ぱんかれ」さんだったりして、今でも時々彼と食事に行くと、FJBで何が一番役に立った?みたいな話になることがあります。よく授業で使われるコンピュータ室の前の円卓で他愛もない話をしながら食事をし、大富豪をし、コンピューター室でネオジオフリークチャットに出入りをし、パワートダイを見て、それはそれは膨大な情報の温泉に浸っていました。
また、ぱんかれさんのゲーム開発や当時岐阜で行われていた、バーチャルリアリティコンテストの準備の様子も横で見続けていました。ぱんかれさんや他の学友の制作の流れや現場が見れたこと何かは、実に得難く、贅沢なものを観させていただいたなぁと思います。
私はぱんかれさんのように物を組み立てることは苦手ですし、プログラムだってできません。卒業制作ではロジカルに積み上げた上での結論を、そのロジックを含めて説明し発表していた…という風に噂も聞いてます。「はじめに言葉ありき」と聖書に書かれていますが、「はじめに意図ありき」というのを、当時も今も、彼の節々から感じます。
最終的にプログラミング言語やHTML言語、PHPなど。その時々の内容や目的に合わせて様々なプログラム言語や画像処理に落とし込むわけですから、私なんかは致命傷に思えます。彼はイラストだけでなく、その気になれば動画も全部ひとりで作れる人間ですし、実際に架空CMを作ったりしてました。
そして私なりの想像や考えですが、私は船橋情報ビジネス専門学校で「ITの持つ可能性と将来性。そして夢」を学んだことに対しぱんかれさんは自分の基礎確認が一番役に立ったと話していますが、あくまで私が見る彼は「意図を構成する力」、「意図を言語化する力」、「意図を具現化する力」その3つに長けているのでしょう。もちろん意図を構成するには考えること、話すこと、書くことが重要ですが、その前に「観察」と「気付き」がまず必要です。日常生活のあらゆるものに興味を持ち、そのデザイン性、動き、成り立ちを観察しなければなりません。それもただ観察するだけでなく、その要点や意味に気付きを持つことが必要です。そうして高速道路フォントは高い完成度を誇り、今も方々で使われているように感じます。
学校生活の中からはじまった、ぱんかれさんとの関係は、その後の私の人生に大きく影響を与えています。ぱんかれさんとの出会いがなければ、確立しえなかったスタイルや作法。おそらく、流儀なんかも持っていなかったかもしれません。
◆あくまで私が見る船橋情報ビジネス専門学校とは。
私とぱんかれさんがいたマルチメディア科は、現在webクリエイター科とか情報処理科とかにその陽炎を残すのみとなりました。そんな点では、船橋情報ビジネス専門学校とは「IT業界の動向に併せたヌーベルキュイジーヌ(新しい料理)のグラン・メゾン(高級レストラン)」ではないかなと考えます。そこで在校生が使った技術と生み出された料理は何らかの形でレシピとして残り残り受け継がれるものの、そのレシピを生み出した技術や卒業生の器としての名声は、時間とともに過去のものとなるのでしょう。
ドローンやA.I。タブレット端末の普及も手伝い、船橋情報ビジネス専門学校は、大きな岐路に立たされています。その後の事を見据えて、こども学科を作ったのかもしれませんが、どうも思惑は今のところ独り歩きして別の道に行きだしているようにも見えます。いや、内情は知りませんしわかりませんし、まだ何枚か切り札は持っているような気もしますが、多分そう簡単にうまくはいかないでしょう。
今後、船橋情報ビジネス専門学校はどのような道を歩むのでしょうか。私が昔味わったドキドキワクワクはどう変わっていくのでしょうか。老舗が暖簾を守ると言うことは、伝統を守ることと新たなものを取り入れること。このバランス感覚にあるように思います。
昔のものを頑なに守るだけでなく、時代時代で変革をしたり絶えず新たな試みを取り入れ、決してあぐらをかかず時代に寄り添っていこうとする姿勢が力になっているように思います。
船橋情報ビジネス専門学校を卒業した私が、学校の行く末について多くを語ることはありません。ただ最近キーボードが使えない学生の話などを聞くたびに、過去から今に続く道筋が崩落し、終焉を迎えようとしているのではと感じる事も、
一度二度ではございません。
とはいえ、その後の船橋情報ビジネス専門学校にとって大事な時期にさしかかっているのは避けられない事実でしょう。しばらくは動向を、愛と尊敬の眼差しで、見守っていこうと思います。
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