バーチャファイター2.1
AMショウ(今で言うJAEPO)が最も活気があったのが94~96。そして99~2001年。その94年に衝撃デビューを果たす。
ゲームタイトル | メーカー | 使用基板 | 発売日(稼働日/配信日) |
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バーチャファイター2.1 | SEGA | Model-2 | 1995年7月 |
希望に夢を膨らませた、3D対戦格闘ブームの幕開け
みなさんおはようございます。こんにちは。こんばんは。セリスです。
さて、今回紹介致しますゲームは格闘ゲームです。「バーチャファイター2.1」。
この記事を書いているのは、ラウンドワンがプライズゲームに力を入れて、ビデオゲームやプリクラ、メダルゲームを大量撤去したのを目の当たりにしたからです。
なので、そんな中あえて、ビデオゲームの歴史に燦然と輝くヒット作を紹介させていただきます。
1から圧倒的進化を遂げた2とは。
まず決定的な違いとしては、セガの3DCGアーケード基板「MODEL2」で製作され、フレームレートが前作の秒間30フレームから57.5フレーム(サターン版は60フレーム)に増加。より曲線的・生物的な動きが可能となりました。
1はアルゴリズムや処理時間にリソースを割いていたので、基板を進化させて、処理能力を挙げ、ほぼほぼ60フレームでの処理に成功したのが、全国のアーケーダーに衝撃を与えました。
今振り返っても、当時では考えられないクオリティ。操作性もよく、1以上にスリリングな戦いが可能になりました。
横浜ジョイポリスで開催された、今で言うeスポーツトーナメントの先駆け。
1995年9月23日、24日の2日間、横浜ジョイポリスで「バーチャファイター2 マキシマムバトル アサヒ プロテインスポーツ カップ」の全国大会が開催されました。1日目はコスプレ大会やコンサートなどの前夜祭、2日目にゲーム大会という日程で行われていた。総エントリー35000人の中から38名の代表選手が選ばれ、その他、鉄人6名(今で言うプロゲーマー)と台湾代表の3名を加えた合計48名が頂点を目指して戦い、会場には2日間で1000人を超えるギャラリーが集まりゲーム大会としては史上空前の規模となっていました。
台湾からやってきた「台湾ステップ」というテクニックで、日本も負けてられないとさらなる盛り上がりを見せ、3稼働直前まで2.1の勢いは鈍らなかった記憶があります。
それだけ、最新の情報または最新のテクニックを持っている地域が強かったのです。
ラウの強さ。そして伝説の決戦「大門ラウvsブンブン丸」。
プレイ動画
テストモード
対戦のセット数やリングの広さ。バージョン切り替えもできます。